「モジャ!」 season2 第四回
 なんか


え、違うの。俺、これまでずっと、モジャでやってきたんですけど。グラサンかけたり、服着替えたり、時には公衆の面前で地べたにうつぶせにぶっ倒れたりして、俺なりのモジャ像を俺なりに追求してきたんだけど、それ全部、違ったの?
少女に、「なんか違う」と言われた俺は心の中で激しく動揺する。そりゃそうだよね。もし俺が勝新で、その座頭市、なんか違うって言われたら、勝新的にどんな気持ちになる?もし俺が、栗貫で、そのルパンなんか違うって言われたら、栗貫的に耐えられる?

いや、俺はね、これまで自分をモジャだと思って、思うと同時にモジャとして生きようと曲がりなりにも決意して、いやそんな風に思うはるか昔から「私は今日まで生きてきました」って吉田拓郎の歌声に自分を重ね合わせて鼻歌で歌ったりもしてきたんだけど、それだってもう、君に言わせれば「なんか違う」わけね。「これからもこうして生きていこうと」って、最後の歌詞を俺に歌わせないつもりなわけね。
しかもね、問題なのは、「違う」ってことではないんだな。いや、俺が言いたいのはね、「みんな違ってみんないい」的なみすずの理屈じゃなくてね、多様性とかジェンダー問題とかそういう何となく全体的にSDGs的な言葉に収斂され出して、ややもすればせっかくのせっかくが、また長いものには巻かれろ的な無思考システムの罠にはまっていくといった話でもなくてね、つまり、まぁ、違うなら違うでいいんだけど、問題は、「なんか違う」の「なんか」の方なんです。
だって曖昧じゃないですか。「なんか」って、何だよ、って言う。でも、まぁ、ある意味、ていうか、本質的に人の感情ってそういう「なんか」なんだというのもわかりますよ、はい、わかります。まぁ、曖昧さって生きる術ですから。安易に言葉を限定しないその姿勢には、むしろ好感を感じますよ、なんかね。

やっぱり「うまい」じゃなくて「なんかうまい」の方が食べてよかった感が滲み出るし、「好き」じゃなくて「なんか好き」って言われた方が、その「なんか」が、表面的な惚れた腫れたより深く沈んだ岩陰の、扉の向こうにある背徳的官能感があるわけだし、「なんかムカつく」の「なんか」って、別に今の俺の発言や態度がどうこうってわけじゃなくて、そこに至るまでの諸々ですね、つまり、九回裏のサヨナラホームランの原因がピッチャーの失投やバッターの技術とか、その時の「なんか」じゃなくて、遡って遡って初回のフォアボールの、いやもっと言えば、キャンプの時の練習の方法論とかにそもそもの原因があるよ的な、点でなく線で捉えたらキリがいないんだけどさ的な「なんか」なのだろう。
だけど、その蒙漠な「なんか」の価値をただ認めるだけで終わらせちゃうんじゃなくてさ、できる限りその「なんか」の「なんか」たる所以を解きほぐしていくって言うのがいわば推理って奴で、つまりシャーロックホームズがやってることで、曲がりなりにも探偵稼業を勝手に名乗っている俺だから、やっぱりその「なんか」をスルーするわけにはいかないわけです。いや、本当は面倒なんだけどさ、でも線路も人生も続くよねワトソン君。

で、俺は、俺に突きつけられた「なんか違う」の「なんか」を解明するために、目の前の少女に聞き取りを始める。と言っても、一体何を聞けばいいの?
ヘイブラザー。脳内がモジャモジャなら、なおさらポップに行くべきだ。
「じゃ、俺は何て名前にすればいい?」俺は初対面の少女に、もうそのまま聞いちゃう。
「わかんない」と少女は答える。そりゃそうだ。
「でも、なんかタンポポの綿毛みたい」と少女は俺のモジャを指さして初めて笑う。その息がモジャを揺らす。種もないし飛びもしないよ。けど、「なんか」始まる気がする。(続)


ロケ地:LIVE BAR TUBO(千歳烏山)
演奏:天の川新一とヤサシク☆ヤッチャイナ
lyric:ミフキ・アバーチ  photo:ウーコ・カオターカ